「なぜ働くのか?」という働くことの理由は、時代ごとに入れ替わってきたのではなく、層として積み重なってきたのだと私は考えています。もう一つ、「仕事と生命の距離」という軸で見ると、変化の流れがつかみやすくなります。
まず最初の層は「生きるため」です。狩猟と農耕の時代、仕事は生存そのものでした。何をして働くかと、どう生き延びるかは、ほとんど同じ問いでした。
次に、身分制度ができます。飛鳥から江戸まで続く長い時代、働くことは「生かしてもらうために務めを果たすこと」になり、ここで「労働」という概念が立ち上がります。何をするかは生まれでほぼ決まっていましたが、身分ごとに働く理由は違っていました。武士は領地を与えられる代わりに命がけで奉公し(「一所懸命」の語源)、農民は生かしてもらうために年貢を納めました。また、職人や商人は、選べない仕事の中にも「道」を見出し、誇りを持つようになります。
働くことに誇りという考えが入ってきたのは、おそらくこのあたりからです。
そして戦後。この時代は、豊かさを取り戻すため、とにかくモノをつくる時代でした。長時間働くことは、豊かになるという共通の目的に支えられていました。「猛烈サラリーマン」という言葉があったように、仕事は命を削るものでもありました。復興を担った世代にとって、豊かさを取り戻すことはもう一つの戦いであり、このとき「なぜ働くか」の答えは、会社と国が用意してくれていました。
そこからモノが満ちた現代へ。日本の多くの人にとって、仕事と生命の距離は離れました。身の回りの安全がほぼ整い、第三次産業が広がり、精神的な充足が働く理由に加わりました。「どう働くか」への意識も大きくなり、カジュアルフライデーからリモートワークへの流れはその表れです。豊かさの対象も、モノからサービス、さらに情報へと広がりました。ただし、これは「多くの人にとって」の話です。「生きるため」の層が重い人は今もなおいますし、仕事で心身を壊す人もなくなっていません。根底の層は決して消えておらず、積み重なったままです。
生命と仕事の距離が離れたことは、決して仕事が楽になったことを意味しません。懸けるものが、自分の生命から「自分の人生の意義」に変わったのだと私は見ています。人生の意義は、生命と違い、誰かが与えてくれるものではなく、自分で見出し、決めなければなりません。
「自分は何のために働くのか」という問いは、苦しいものです。
答えが見つからないために、会社の命令に従って生きることを選ぶ人を、私はこれまで数多く見てきました。従うほうが楽なのは確かで、苦しさを避けるための合理的な選択でもあります。しかし、戦後は会社と国が答えを用意してくれていたのに、その供給はもう続いていません。受け取る習慣だけが残っていて、答えの出どころがもうなくなってきている。今の日本はそういう状況であると感じます。
ここに、外からの二つの変化が重なります。
一つはAIによる効率化です。定型的な部分はAIが担い、「やること」が満ちたとき、「なぜやるのか」が避けられない問いになります。これは仕事を奪われるから人間らしさに逃げ込むという話ではなく、手を動かす理由が薄れた分、「自分が動く理由そのもの」が問われるということです。
もう一つは、情報が常に五感に飛び込んでくる環境です。他人の言葉や反応が絶えず目に入る環境では、自分の内側から出た考えか、周りに影響されただけの考えか、区別がつきにくくなります。
効率化で「やること」が減り、情報の洪水で「自分の内側」が見えにくくなる。
この二つが重なる今は、「なぜ働くか」の答えを自分自身で持つことが、これまでになく重くなる時代です。
自分の人生の意義を自分の中に持てること。それは「自分は自分である」というアイデンティティや尊厳と深くつながっています。この行き先として、私は「働くこと」がアイデンティティと尊厳を取り戻す営みに近づいていくと考えています。
ここで私が「はたらき」と表現したいのは、仏教で語られる「風のはたらき」に近いものです。風は、草木を揺らそうとして意図的に吹くわけではありません。吹いた結果として、自然に草木が揺れる。人も同じで、自分の熱源から出たものが、結果として誰かの心を動かす。この状態が「はたらき」です。生かしてもらうための務めだった「労働」から、自分の熱源が自然に吹き、結果として誰かに届く「はたらき」へ。これが、私の考える働くことの行き先です。
私が知るある経営者は、誰も賛成しなかった構想を、多くの人に冷笑されても事業の真ん中に置き続け、仲間を集め、国に働きかけ、前例のない形でその事業を実現しました。その出発点は「人を動かすこと(草木を揺らすこと)」ではなく、ご自身の熱源でした。私にはそう見えます。
この見方をすると、LinkedInやnoteで人が発信を続ける構造は、単なる承認欲求では説明しきれません。ただし、同じ発信の中に「尊厳の回復」と「承認の消費」が混ざっているのも事実で、常に情報が入ってくる環境ではその見分けが年々難しくなっています。
では、見分ける手がかりはどこにあるのか。それは「その発信がどこから出ているか」に尽きます。
熱源から吹いた風は、いいねの数に関係なく続き、結果として人の心に届きます。他者の揺れを狙って吹く風は、反応が止まれば止まってしまうもの。
日々の仕事全般においても、これと全く同じ構造があると思っています。人の心を動かす風が吹くには、まず自分の熱源を自分でわかっている必要があります。自身の熱源を知ることが、これからの仕事の絶対的な前提になる。そしてこれは自分一人で見つけるのが非常に難しい問いです。
だからこそ、その答えを自分の外側に預けるのではなく、内側にあるものを言葉にする「本音の深い対話」がこれからのはたらくことにおいて一層必要になるのだと考えています。